「イメージの力」@国立新美術館 感想
会期:2014年2月19日(水)~ 6月9日(月)
会場:国立新美術館
http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=426
民族資料を、美術・人類学の両方の視点で視る、という趣旨の展覧会。
展示物は4つのセクションに分かれ、はじめは宗教・地域に由って作られた「道具」が、
時代の変容と共にアートとしての側面を持ち始める…
イメージは時間の経過・地域で変容して行く、という見せ方をしていた。
以下、セクションごとの感想文。
プロローグー視線のありか
世界各地の様々な行事に用いられる仮面が、ズラリと壁に並んでいた。異形だけれど、目と口の付き方が人間の造形と近い。異形と思わせて、敢えて人間に寄せているのか?仮面が持つそのギリギリな曖昧さが、見た者に畏れを抱かせる仕組みなのかもしれない。
ギョッとしたのは、目の箇所に鏡が付いている仮面の前を横切った時。自分の姿がその鏡に映り、一瞬目が動いたのかと感じてのけぞった。こんな仕掛けをするなんて、その仮面の制作者にしてやられたような気分だった。
ここでは普段、作品を「みる」だけの鑑賞者が、その作品に一斉に「みられる」という展示構成にしたとのこと。だが仮面に「みられている」とは、あまり感じなかった。かつて祭事で使用された「道具」をただ見ていた。仮面が力を発揮するのは、人間が仮面を付けて動いている時だと思う。鏡の目に映った動く自分を見てギョッとしたように、動きがあると不気味さや恐ろしさ、可笑しさが生まれる気がする。
●●●
第1章 みえないもののイメージ
ーー1 ひとをかたどる、神がみをかたどる
神々を人形にかたどり、見えないものを視覚化した物が展示されていた。人間はこうしたものを拝んだり、大事にしたり関わることで、異界の力を得ようとしてきた。宗教のことはあまり詳しくないが「信仰する」ということは、神の力をお裾分けしてもらう、という解釈でよいのだろうか…。
私自身もお守りを持ったり、もらったりしたことはある。お守りという「物」を持っていると、良いことがある気がする。見えない何かの力に頼 るためには、形を持った「物」が必要なのだろう。
ーー2 時間をかたどる
神話や過去の英雄を人々に伝え広めるために、タペストリーなどで視覚化する。物語を視覚化することは時間を形にするということ。それらの時間が膨大に重なり、やがて聖書やコーランへと進化していったのだろうか。物語は信仰のために綴られた。今では小説や映画・ドラマ、漫画など「娯楽」へと、違う用途でも物語は生み出されているけれど。
●●●
第2章 イメージの力学
ーー1 光の力、色の力
衣服や装飾品など、色鮮やかで光り輝くものは「反射する」という性質に引っ掛けて、悪い物事を「反射」させるために身に付けていた、ということを初めて知った。その反射させる力を強くしようとすればするほど、造形は凝っていったのだろう。ビーズの衣服の模様にはクラクラした。
ーー2 高みとつながる
このセクションではまずキャプションよりも、高くそびえ立つポールが一目散に目に飛び込んできた。周囲を見渡すと背の高さは違えど、高く細長い造形物ばかりだった。この空間がこの会場で一番迫力があり、引き込まれた。素敵な見せ方だった。
これらのポールは墓標であり、死者を見送るためのものらしい。地上の人間が高く見上げ、視線を上げることで、霊魂が高み(=他界)へと上って行くのだという。視線は高い位置へ誘導され、実際に死者はいないが、見送る儀式を疑似体験できた。いや、自然とさせられた。そんな空間だった。そしてよく耳にする「トーテムポール」が墓標ということを、ここで初めて知った。
●●●
第3章 イメージとたわむれる
前章で人間は魔除けのため、また、力の象徴として作っていた衣服・装飾品が、つくること自体が愉しいということを知り、その愉しさを追求するために更に造形に凝っていった。この時、人間に「趣味」という行動が生まれたのかもしれない。このセクションではそういったことを語っているのだと思うが、前章との繋がりが感じられなかった。
「ーー1 光の力、色の力」と「ーー2 高みとつながる」を逆の順番で見ていたら、そんな違和感はなかったように思う。会場の建築上、そうもいかなかったのかもしれないが。
●●●
第4章 イメージの翻訳
ーー1 ハイブリッドな造形
「ハイブリッド」という単語の意味を知らなかったので「?」だった。このセクションからガラリと展示物が変わる。あいだが抜けている感じがして、こちらも前章との繋がりを感じられなかった。「銃の残骸で作られた椅子」など、強いメッセージ性を発している展示物が唐突に感じた。この作品がここにある意味は、恐らく「複数の人々の交わりによって、新しいイメージが生み出される。これがハイブリッドということ」という、この章を説明するための象徴的造形物なのだと後から感じられたが、会場ではポカーンだった。知識がない故に読解力が追いつかなかった。
ーー2 消費されるイメージ
各国の土産物売り場で売られている「その国っぽいもの」。しかしそれらの商品は、その国の伝統的造形物ではなく、観光客が抱いているイメージで作成されている。観光客が求めているから、実際とはズレたイメージだが、作って売っている。これが「消費」ということなのだろう。
エピローグー見出されたイメージ
日常生活における実用品を、美術館のような現代美術のインスタレーションの手法で展示。見せ方を変えることで、それまで抱いていたイメージが変わって見える。ここで飾られている物は、現代美術というよりも、合理的主義だとか、機能主義のジャンルに属するのではと個人的に感じた。それはたぶん 「インスタレーションの手法」としていたが、網やハシゴ以外の物は、ただ棚に「置いてる」 、壁に「掛けてる」 だけにしか見えなかったからだと思う。
●●●
アートと人類学を併せて発表するという企画展。自分の知識が足りないために、プロローグとエピローグが繋がらなかった。正直自分の中で、オチが着地していない。プロローグから第3章までは納得している。
宗教が生まれ、その宗教から芸術が生まれた。ということを以前調べたことがある。今回のプロローグから第3章までは、宗教から芸術が生まれたという流れで展示されていたので、それを思い出した。
そうした見方をしてしまったため、第4章へと繋がらなかった。第4章では宗教の話はなく、消費や流通と言った、カネの話が登場したので少々混乱し、何に焦点を置いて鑑賞すれば良いのか分からなくなった。企画意図をきちんと理解しきれなかったが、展示されていたものは見ていてとても愉しかった。
会場:国立新美術館
http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=426
民族資料を、美術・人類学の両方の視点で視る、という趣旨の展覧会。
展示物は4つのセクションに分かれ、はじめは宗教・地域に由って作られた「道具」が、
時代の変容と共にアートとしての側面を持ち始める…
イメージは時間の経過・地域で変容して行く、という見せ方をしていた。
以下、セクションごとの感想文。
プロローグー視線のありか
世界各地の様々な行事に用いられる仮面が、ズラリと壁に並んでいた。異形だけれど、目と口の付き方が人間の造形と近い。異形と思わせて、敢えて人間に寄せているのか?仮面が持つそのギリギリな曖昧さが、見た者に畏れを抱かせる仕組みなのかもしれない。
ギョッとしたのは、目の箇所に鏡が付いている仮面の前を横切った時。自分の姿がその鏡に映り、一瞬目が動いたのかと感じてのけぞった。こんな仕掛けをするなんて、その仮面の制作者にしてやられたような気分だった。
ここでは普段、作品を「みる」だけの鑑賞者が、その作品に一斉に「みられる」という展示構成にしたとのこと。だが仮面に「みられている」とは、あまり感じなかった。かつて祭事で使用された「道具」をただ見ていた。仮面が力を発揮するのは、人間が仮面を付けて動いている時だと思う。鏡の目に映った動く自分を見てギョッとしたように、動きがあると不気味さや恐ろしさ、可笑しさが生まれる気がする。
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第1章 みえないもののイメージ
ーー1 ひとをかたどる、神がみをかたどる
神々を人形にかたどり、見えないものを視覚化した物が展示されていた。人間はこうしたものを拝んだり、大事にしたり関わることで、異界の力を得ようとしてきた。宗教のことはあまり詳しくないが「信仰する」ということは、神の力をお裾分けしてもらう、という解釈でよいのだろうか…。
私自身もお守りを持ったり、もらったりしたことはある。お守りという「物」を持っていると、良いことがある気がする。見えない何かの力に頼 るためには、形を持った「物」が必要なのだろう。
ーー2 時間をかたどる
神話や過去の英雄を人々に伝え広めるために、タペストリーなどで視覚化する。物語を視覚化することは時間を形にするということ。それらの時間が膨大に重なり、やがて聖書やコーランへと進化していったのだろうか。物語は信仰のために綴られた。今では小説や映画・ドラマ、漫画など「娯楽」へと、違う用途でも物語は生み出されているけれど。
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第2章 イメージの力学
ーー1 光の力、色の力
衣服や装飾品など、色鮮やかで光り輝くものは「反射する」という性質に引っ掛けて、悪い物事を「反射」させるために身に付けていた、ということを初めて知った。その反射させる力を強くしようとすればするほど、造形は凝っていったのだろう。ビーズの衣服の模様にはクラクラした。
ーー2 高みとつながる
このセクションではまずキャプションよりも、高くそびえ立つポールが一目散に目に飛び込んできた。周囲を見渡すと背の高さは違えど、高く細長い造形物ばかりだった。この空間がこの会場で一番迫力があり、引き込まれた。素敵な見せ方だった。
これらのポールは墓標であり、死者を見送るためのものらしい。地上の人間が高く見上げ、視線を上げることで、霊魂が高み(=他界)へと上って行くのだという。視線は高い位置へ誘導され、実際に死者はいないが、見送る儀式を疑似体験できた。いや、自然とさせられた。そんな空間だった。そしてよく耳にする「トーテムポール」が墓標ということを、ここで初めて知った。
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第3章 イメージとたわむれる
前章で人間は魔除けのため、また、力の象徴として作っていた衣服・装飾品が、つくること自体が愉しいということを知り、その愉しさを追求するために更に造形に凝っていった。この時、人間に「趣味」という行動が生まれたのかもしれない。このセクションではそういったことを語っているのだと思うが、前章との繋がりが感じられなかった。
「ーー1 光の力、色の力」と「ーー2 高みとつながる」を逆の順番で見ていたら、そんな違和感はなかったように思う。会場の建築上、そうもいかなかったのかもしれないが。
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第4章 イメージの翻訳
ーー1 ハイブリッドな造形
「ハイブリッド」という単語の意味を知らなかったので「?」だった。このセクションからガラリと展示物が変わる。あいだが抜けている感じがして、こちらも前章との繋がりを感じられなかった。「銃の残骸で作られた椅子」など、強いメッセージ性を発している展示物が唐突に感じた。この作品がここにある意味は、恐らく「複数の人々の交わりによって、新しいイメージが生み出される。これがハイブリッドということ」という、この章を説明するための象徴的造形物なのだと後から感じられたが、会場ではポカーンだった。知識がない故に読解力が追いつかなかった。
ーー2 消費されるイメージ
各国の土産物売り場で売られている「その国っぽいもの」。しかしそれらの商品は、その国の伝統的造形物ではなく、観光客が抱いているイメージで作成されている。観光客が求めているから、実際とはズレたイメージだが、作って売っている。これが「消費」ということなのだろう。
エピローグー見出されたイメージ
日常生活における実用品を、美術館のような現代美術のインスタレーションの手法で展示。見せ方を変えることで、それまで抱いていたイメージが変わって見える。ここで飾られている物は、現代美術というよりも、合理的主義だとか、機能主義のジャンルに属するのではと個人的に感じた。それはたぶん 「インスタレーションの手法」としていたが、網やハシゴ以外の物は、ただ棚に「置いてる」 、壁に「掛けてる」 だけにしか見えなかったからだと思う。
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アートと人類学を併せて発表するという企画展。自分の知識が足りないために、プロローグとエピローグが繋がらなかった。正直自分の中で、オチが着地していない。プロローグから第3章までは納得している。
宗教が生まれ、その宗教から芸術が生まれた。ということを以前調べたことがある。今回のプロローグから第3章までは、宗教から芸術が生まれたという流れで展示されていたので、それを思い出した。
そうした見方をしてしまったため、第4章へと繋がらなかった。第4章では宗教の話はなく、消費や流通と言った、カネの話が登場したので少々混乱し、何に焦点を置いて鑑賞すれば良いのか分からなくなった。企画意図をきちんと理解しきれなかったが、展示されていたものは見ていてとても愉しかった。